日本の歯科医療政策
国の歯科医療政策:予防重視への転換と課題
多くの方が健康保険を利用して歯科医院を受診し、診療後には保険点数が記載された領収書を受け取ります。この保険点数は国が定めており、具体的には厚生労働省の官僚が作成した基礎案をもとに、中央社会保険医療協議会で最終審議を経て決定されます。これらの点数は、定められた財源から各項目に配分されます。
予防医療へのシフト
かつては虫歯治療などに多くの点数が割り当てられていましたが、近年、その方針は大きく転換しました。健康保険は本来、疾病や第三者行為以外による怪我にのみ適用されますが、歯科においては約10年前から予防関連の項目が導入され始め、現在ではその重要性が増しています。厚生労働省も、歯科医療政策の要として、治療の減少に代わる口腔機能の維持管理と医科との連携を掲げています。
実際、厚生労働省は歯科医療費がどのように使われているかも発表しています。それによると8割が歯周病関連に使われていることから、この事実を裏付ける証拠となっています(下図参照)。
口腔機能維持の重要性
口腔機能の維持とは、簡潔に言えば「口腔内を清潔に保つこと」を意味します。これは、誤嚥性肺炎をはじめとする内科的疾患の予防に直結することが明らかになったためです。誤嚥性肺炎は、食事中のむせだけでなく、就寝時の唾液の誤嚥によっても引き起こされます。口腔内が不潔であれば、唾液中の大量の細菌が肺に侵入し、肺炎を発症するリスクが高まります。2023年の統計では、誤嚥性肺炎は日本人の死因の第6位であり、年間約5万人が亡くなっています。その医療費は国家財政を圧迫する一因であり、高齢者の多死時代において、その削減は喫緊の課題です。
つまり、国は国家戦略として、歯科医療に対し口腔内を清潔に保つことを期待し、医療費削減を目指しているのです。これが、歯周病安定期治療や歯周病重症化治療といった保険項目に該当し、多くは歯科衛生士が担当します。この方針自体は、国民の健康増進と医療財源の削減に貢献するため、非常に良いことです。
歯科医院経営への影響と課題
しかし、そのしわ寄せが本来の歯の治療の保険点数に及んでいるのが現状です。日本の歯科治療の保険点数は従来より諸外国と比較してかなり低いという事実はありましたが、昨今の物価高騰や人件費上昇により、その低さが際立ち、歯科医院の経営に影響を及ぼしています。
例えば、虫歯治療でハイブリッドセラミック(レジン)を充填するケースを考えてみましょう。当院ではマイクロスコープを使用し、約30分を要するこの治療の国が定めた治療費(診療報酬)は、2,450円から3,500円程度に過ぎません。再診料などを加えても約3,000円から4,000円程度です。この金額では、材料費のみならず、歯科医師だけでなくアシスタントや複数のスタッフの人件費、高額な設備費用、家賃、水道光熱費といった諸経費を考慮すると、間違いなく赤字となります。
また、被せ物や義歯(入れ歯)に関しては、技工所に製作を依頼している場合が殆んどあり、その委託製作費や材料費を入れた原価は、診療報酬の50%を超えている状況なのです。この原価率でも診療報酬自体が高ければ経営は成り立つかもしれません。しかし、診療報酬自体が極めて低くこの原価率ですと、この様な診療行為は全て赤字なのです。
通常の業務であれば、採算が取れない料金体系であれば値上げが可能ですが、保険診療ではそれができません。これは、昨今言われる市中の病院の7割が赤字であるという状況と同様です。
歯科衛生士の重要性と今後の展望
では、なぜ歯科医院が存続できるかというと、前述の歯周病予防処置(メンテナンス)の保険点数が、治療の点数よりも比較的高く設定されているためです。つまり、治療の赤字分をメンテナンスで補填しているのです。また、被せ物など一部の診療行為を自費診療にしていただいていることも一助となっています。
これは厚生労働省の明確な誘導であり、承知の上で行われていると推察されます。実際、メンテナンスを受けている患者様は口腔内が清潔に保たれ、虫歯になることは稀であり、重症化することもほとんどありません。そして間接的に、内科的な医療費の削減に貢献しているとも思えるのです。
したがって、この国の歯科医療政策は誤りではありません。しかし、歯の治療の保険点数がこのままでは、遅かれ早かれ、かなりの歯科医院の経営が立ち行かなくなると思われます。その理由は、治療の赤字をメンテナンスで補填するとすれば、主に歯科衛生士が行うメンテナンスの存在が鍵を握るからです。
このような状況であるため、現在、歯科衛生士の取り合いが起こっており、就職倍率は20倍から30倍にも達しています。そのため、歯科医師1名の診療所、歯科衛生士がそもそも在籍していない診療所、都市部においては駅から遠い診療所など、歯科衛生士の採用が困難な歯科医院が存在します。
厚生労働省もこの事態は承知しているものと思われます。彼らは、ある程度の規模を有する歯科医院のみが存続することを望んでいるのです。そうすることで、高齢化時代の地域包括ケアシステムにも参画してもらえるからです。内科の医院も同様ですが、小規模な医院よりも、中規模以上にマンパワーを集約した方が医療費削減に繋がり、これからの日本の医療には不可欠だからです。
これが、私見ではありますが、我が国の歯科医療政策であると推察いたします。メンテナンスは非常に良い制度であり、患者様にとっても、歯科医院にとっても、国にとっても有益です。
ただし、歯の治療費の保険点数は、赤字にならない程度には引き上げていただきたいと切に願う次第でございます。
理事長 久保倉 弘孝